REACHにおける塩酸:混合物でない

社会科学化学フレームワーク(化学物質規制のフレームワーク, SSChF)、 少なくともREACH/CLPのフレームワーク上は 塩酸は混合物でない。これは、自然科学化学フレームワーク(アカデミック化学フレームワーク, NSChF)、従来高校、大学と習った化学のフレームワークにおける説明と大きく異なる。

ここでは、化学フレームワークが違えば混合物の概念(idea)が違うことを説明するとともに、その重要性を述べる。その事例を通じて一般的にフレームワークを意識することを推奨したい。

フレームワーク

本題に入る前にフレームワークを定義しておこう。次のCollins Dictionaryにある一般的定義で十分だ。

フレームワークとは

“A framework is a particular set of rules, ideas, or beliefs which you use in order to deal with problems or to decide what to do.”

Source: Collins Dictionary
https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/framework#framework__1

フレームワークのscope/beliefs/ideas/rules

フレームワークを定義している文書には、それを使おうとする対象範囲(scope)の中で目的を達成するのに使うと便利な前提(beliefs)や概念(idea)が用語として定義され、それ等を関連付けながら、ルール1が説明されているのが一般的だ。

フレームワーク内の一貫性(Integrity)

フレームワークで提示されている概念やルールはその中で相互に矛盾せず、一貫性を持っていなければならないのはもちろんのことであるが、それをscope内の具体的事例に適用したときにも、一貫性が保持できなければならない―そうでないフレームワークは役に立たないフレームワークだ。フレームワーク文書では使用されていなかった概念を表す言葉が多数現れる適用場面でも、概念、ルール、そして、前提が一貫性を持ち、混乱が引き起こさないようなものでなければならない。

フレームワーク外では一貫性は保証なし

一貫性を持ったフレームワークであっても、指定するスコープ外での適用においては一貫性は保証されない。あるフレームワークで定義された概念は、それが宣言したスコープ外において使ったとき当然ながら一貫性は全く保証されないし、そのような適用における誤りや非有効性の責任は、フレームワークにではなく、適用(者)に追わせなければならない。

また、同一スコープの異フレームワークの同時使用においても一貫性は保証されない。つまり、仮にスコープが同じであっても異なるフレームワーク間での一貫性を各フレームワークは保証はしない―これは当たり前だろう。これは併用を禁じているのではなく、意識的で思慮深い併用が求められるのである。

以下に述べる自然科学化学フレームワークと社会科学化学フレームワークにおいては、両者の併用における一貫性の毀損の責任は不注意な適用が追わなければならない。スコープ、そこで使われる、概念、前提、ルールのセットが一貫して使用されるべきで、異なるスコープのそれらの不注意な併用は避けなければならない。

自然科学化学フレームワーク(NSChF)の混合物

混合物の概念は高校化学で教わる。世の中の物質(Matter)、それはほとんどが混合物で、そこから蒸留や抽出などの手段を使って純物質(Pure substance)を取り出す。まだ異なる純物質(Pure substance)に分けることができるなら、その物質(Matter)混合物である。つまり、物質(Matter)の分類として、混合物と純物質があると教わったはずだ。50年近く前の日本の高校化学教科書でも平成30年版のある日本の高校化学基礎の教科書でも同じだ。
これは、ある米国の高校化学教科書でも同じである。但し、Matterを分けて、pure substancemixture があると書いてあるが。例えば、ネット上に公開されている米国高校化学教科書を次から見れば良い。 https://www.hemethigh.com/apps/pages/index.jsp?uREC_ID=290557&type=u&pREC_ID=936194


ある平成30度の高校化学教科書では塩酸が混合物の典型として紹介されている。水と塩化水素からなると。

REACH/CLPフレームワークの混合物

塩酸も塩化水素と同じ?

まずは2つの事実を指摘する。それら事実が理解できなければREACH/CLP、そして、GHSのような社会科学化学フレームワーク(SSChF)を理解しているとは言えない。

  1. 当局情報: 塩酸と塩化水素は同じEC番号で登録されている:EC#231-595-7。塩酸のList No.:933-977-5は公式のEC番号でないことに注意が必要だ2
  2. 産業界情報: Cefic 欧州化学工業協会などが設立した機関 ReachCentrumを通じてEurChlor 欧州塩素協会が公開している後で紹介する文書には、なぜそうなのか具体的に書いてある。

次のそれぞれを詳しく見てみよう。

1当局側ECHAの情報を詳しく見よう。

Hydrochloric acid のECHAの登録書のページを見てみよう。 

この塩化水素EC#231-595-7で代表することのできる物質群の画面のTrade names:を見ると、 Hydrochloric Acid 35% solution、 つまり、35%塩酸、 Hydrogen chloride (anhydrous) 塩化水素(無水)、HCl-Gas HClガスが並んでいる。つまり、同じ、塩酸も塩化水素も同じ物質(same substance)でEUの化学品規制文脈では同一とされていることが分かる。そのページの全体は次のリンクをクリックすれば見ることができる。

https://echa.europa.eu/registration-dossier/-/registered-dossier/15859

塩化水素と名前が付けられた登録画面に、高校化学(自然科学化学)で混合物とされる塩酸が、混合物は登録の対象でないとするREACHで登録されているのが見られるのは、登録者が混合物と純物質の区別も知らないわけでは決してない。REACH/CLPのフレームワーク上は塩酸も塩化水素も同じIDを与えている、つまり同じ(種類の)物質としているからだ。後に記載しているGHSの物質の定義(REACHのそれとほぼ同じ)が適用されている。

OSOR 一物質一登録

REACH/CLPでは、同一とされる物質(same substances)についても、各登録者(輸入業者や製造業者もしくは唯一代理人 OR)の物質ごと同定され(substance identification)て登録が求められる。同一物質(same substances)であるからといって、物質の数を一つとカウントされているわけではない。同一物質(same substances)について登録者ごとに同定(substance identification)され、物質が登録番号で管理されている(One-Substance-One-Registration 一物質一登録)。たとえば、REACHでは、塩化水素として188物質が登録されている(2019/02現在)。

同じ物質でも危険有害性は多様

同じ化学製品―同じ化学物質として製造販売されている製品―であっても多様である―危険有害性も含めてである。製法が違えば主要な目的とする成分が同じでも不純物が違ってくる。不純物が違えば、危険性や有害性(ハザード、危険有害性)が違ってくることがある。同じ化学物質―主たる目的成分が同じ物質―であっても溶媒があるか否かで危険有害性は違ってくる:同一のEC番号で代表される物質としてひとくくりにされる塩化水素と塩酸の危険有害性はもちろんREACH/CLPの中では危険有害性が違うとされている。同じ金属であるので同一のEC番号で代表されるアルミニウムも、固体の大きな塊であるか、切削作業や金属精錬作業によって生じた粉塵やフュームであるかによって危険有害性が違ってくる。この段落の説明はラフなものではあるが、同じ物質であっても同じ危険有害性であるということではないということを示すには十分だろう。

2 産業界側の説明を見てみよう。

HYDROGEN CHLORIDE (HCl) – REACH CONSORTIUM / Substance Profile

(2023-11-19 リンク切れに対応)

そこには、次のように書かれている:

The substance to be registered is hydrogen chloride (HCl) as a mono-constituent substance of min 80 percent (w/w) HCl excluding water (= solvent). At normal temperature and pressure, HCl is a gas. It is sold in this form in pressurised containers. It is mostly produced and used in aqueous solution (= hydrochloric acid) of various concentrations, with a concentration range of up to 40 percent (w/w) HCl.

3. GHSとREACHの物質と混合物の定義

GHSの物質と混合物の定義を見てみよう。これらの定義は、REACH/CLPにおけるそれらの定義とほとんど変わらない。微妙な違いが問題になることもあるので両方を記載する。

Substance means chemical elements and their compounds in the natural state or obtained by any production process, including any additive necessary to preserve the stability of the product and any impurities deriving from the process used, but excluding any solvent which may be separated without affecting the stability of the substance or changing its composition.


出典:国連 2017 GHS revision 7th

物質(Substance)とは、自然状態にあるか、または任意の製造過程において得られる化学元素およびその化合物をいう。製品の安定性を保つ上で必要な添加物や用いられる工程に由来する不純物も含むが、当該物質の安定性に影響せず、またその組成を変化させることなく分離することが可能な溶媒は除く。


出典: 環境省 > GHS  GHS国連文書(改訂 7 版:2017年)仮訳

Mixture means a mixture or a solution composed of two or more substances in which they do not react



出典:国連 2017 GHS revision 7th

混合物(Mixture)とは、複数の物質で構成される反応を起こさない混合物または溶液をいう。


出典: 環境省 > GHS  GHS国連文書(改訂 7 版:2017年)仮訳

英語原文で、化合物が compounds と複数であることに注意したい。”Substance means …compounds” 。

1. substance: means a chemical element and its compounds in the natural state or obtained by any manufacturing process, including any additive necessary to preserve its stability and any impurity deriving from the process used, but excluding any solvent which may be separated without affecting the stability of the substance or changing its composition;

REACH

アカデミックな化学をよく知った人でも、この混合物の定義には何も疑問も感じないかもしれないが、物質の定義を見てなんだこれはと思うのではないだろうか。この物質の定義のおかげで、アカデミック化学フレームワークの混合物が化学規制フレームワークの混合物でないということが起こるのである。

しかも、欧州連合化学物質庁(ECHA)は、明確にEU の化学品規制においては混合物は物質でないと、下のように言い切っている。

Mixutres : A mixture is a mix or solution of two or more substances. Under the EU chemicals legislation, mixtures are not considered substances.

https://echa.europa.eu/support/substance-identification/what-is-not-a-substance

混合物でない多成分の物質

REACH/CLPフレームワーク上は混合物でない物質を「単成分物質」「多成分物質」「UVCB」に区別することが求められる。もう一度確認しよう。このフレームワーク上は混合物は物質でない。とすると、多成分物質は混合物でない物質ということになる。これは、自然科学化学にない考え方だ。 UVCB物質に至っては成分が変わったり、成分数が多すぎてわからない物質―これも混合物でない―というわけだ。UVCBとは、Chemical Substances of Unkonwn or Variable Composition, Complex Reaction Products and Biological Materials の頭字語で、最近REACHの影響で、日本でも取り上げられるようになったが、もともとは米国TSCAで使われてきた概念だ。TSCAフレームワーク上の定義はUVCB.txtで検索すると見つかる。

混合物の混合物は未定義?

奇妙なことに、混合物を混ぜたものは何? という論理上の疑問が出てくる。REACH/CLPフレームワークでは混合物を混ぜたものは何かは未定義になってしまう。混合物でもなく物質でもなく、混合物を混ぜたものとしか言えない。

実際には、混合物の混合物も混合物というと定義を付け加えるだけで穴は埋めることができる。

空気は混合物でなく物質

自然科学化学、高校の基礎化学で代表的な混合物として教わった空気は、REACH/CLPフレームワークの定義だと混合物ではなく、物質だというわけだ。空気は、自然状態にあるのだから。もっとも、空気そのものが規制の対象にはならない。

石油も混合物でなく物質

また、石油だってそうだ。いろんな炭化水素からなり、さらに蒸留により分けてもなお多数の成分からなるナフサや軽油、重油といった違った物質が得られることはほとんど誰でも知っている事実だ。しかし、原油も、ナフサも、軽油も、重油も物質であって混合物でないというのが化学品規制のフレームワークだ。これが典型的なUVCB物質だ。

重合禁止剤入りのモノマーも混合物でない

ポリマーも原料となるモノマーの中にはそれだけでは光や熱と反応して思わぬところで重合してしまうことがある。モノマー輸送中に重合反応が起き高熱が発生する事故が起こることもある。これを防ぐため「製品の安定性を保つ上で必要な添加物」重合禁止剤が微量添加されることが多い。この場合、添加物を人為的に混ぜたものであっても物質というわけだ。

単一の主成分以外に不純物(成分)を含んでいても混合物でなく物質

REACH/CLPのフレームワークでは、物質と混合物は峻別される。混合物は物質ではない。しかし、複数の成分からなっても混合物ではなく、物質である場合がある。たとえば、20%未満の不純物を含み、主成分として一成分からなる物質は、単一成分物質と呼ぶ(成分が単一なのではなく主成分が単一という意味。名前から誤解しないようにしなければならない)。工業化学製品の多くは不純物を含むことが多い。混ぜ物をしているわけではなく、製造中に副生物ができたり、製造原料中の不純物が残ったりしている。だから、同じ工業化学製品である物質であっても、製造方法によって不純物の割合や種類が違うこともある。例えば、塩酸は製法の違いにより合成塩酸と副生塩酸に分けられ、後者は前者に比べて純度が低いことが知られている。

4. 日本でも起こっている変化

GHSは、1992年のリオデジャネイロで開かれた国連主催の環境会議で宣言されたアジェンダ21―21世紀計画―の一つの成果であり、2003年に初版が出た。ほぼ、2年おきに、歴史ある輸送危険物規則に習って改訂され、最新版は第7版である。

このGHS導入以後日本でも、リスク評価にGHSが出てくるし、SDSの書式も変わっている。昔MSDSと言われた頃の書式に見られた自然科学化学フレームワーク(NSChF)から、規制フレームワーク、社会科学化学フレームワーク(SSChF)ヘと変わってきている―物質と混合物の定義に関わる部分が変わった。旧MSDSに関するJIS規格では、化学製品をまず混合物単一物質か区別することを求めていたが、それが規格上はすでに消えている: GHS対応を謳っていながら、この区別を記載したSDSがまだ日本にはあるが、これは、具体的な変更点については説明が行われても、フレームワークが変わったことについて注意の喚起が行われていないためだろう。

結論:Compatibleでない2つのフレームワーク

この自然科学化学のフレームワーク(NSChF)と社会科学化学フレームワーク(NSChF)の相性は良くない。これを同時に使うとき、気を付けないと、(自然科学で教わる)混合物が、(規制条文で出てくる)混合物でないということが頻出する:その例を上に示した。カッコ書きした部分を外す:すなわち、フレームワークを意識しないと「混合物が混合物でない」と言う論理矛盾が起きてしまう。

フレームワークの意味を最初の定義に戻って考えて見るのもまた面白い。この自然科学化学フレームワークから、社会科学化学フレームワークへの日本の化学品規制フレームワークが移行してきていること自覚している人は日本にはまだまだ少ないように思える。この移行を意識的に行わなければ、おそらく、その二つのフレームワークの相性が良くないことにより日本の化学品規制の実務的な舞台で混乱が起きるだろう。

以上 斜体太字の言葉は自然科学フレームワーク上での言葉である。

改訂履歴:

2019-02-09 「アカデミック化学フレームワーク」という言い方をやめ「自然科学化学フレームワーク(NSChF)」に変更し、それに対応して、「化学品規制フレームワーク」という言い方の代わりに、「社会科学化学フレームワーク(SSChF)」に変更した。大学でも化学品規制を教えているので、「アカデミック」というくくりは適切でないと考えた。また、「社会科学化学フレームワーク」が明確に意識して大学で教えられることを期待して変更した。

2023-11-19:
一部のリンク切れを修正。

補足:

ポリマー

NSChFとSSChFにおいて概念(idea)が異なるものに、「混合物」「物質」以外に、「ポリマー」がある。これについては、別の記事を書きたいと思っている。

脚注:

ルール(rule): 文頭のフレームワークの段落でこれを説明しなかった。段落が長くなってしまって本題になかなか入れないからだ。ここでのruleは、一言でいえば、日本語での「規則」というより、「規範」とか「法則」である。

こう言ってもピンとこないかもしれない。そこで、Weblio 英和辞典とCollinsから引用すると:

(社会・会などで秩序・機能を維持するため相互に守るべき)規則、規定、ルール、規則、(科学・芸術上の)法則、方式、(数学上の)規則、解法、常習、習慣

Weblio 英和・和英辞典 https://ejje.weblio.jp/content/rule

2. countable noun A rule is a statement telling people what they should do in order to achieve success or a benefit of some kind.

An important rule is to drink plenty of water during any flight.

[解説:飛行機の中で水をたくさん飲めという「規則」は聞いたことがないが、それは「規範」「良い習慣」「従うとよい結果を得られるもの」であるということであれば納得できる。]

By and large, the rules for healthy eating are the same during pregnancy as at any other time.

Collins Dictionary

ECHAは、REACHを施行するときに、従来公式に使われていた番号 EINECS, ELINCS, NLPを一つのEC Inventoryとし、EC番号とした。番号は変わったわけではない。しかし、多数の既存物質について情報を収集する時点ではその他の番号CAS番号やその他の物質同定記号や番号などにも対応しなければならない。そこで、一貫性の保証も何もないがList 番号という非公式の番号(官報になかった番号)を内部的に使用した。この番号は当初公開する予定ではなかったと振り返っている。( Guidance for identification and naming of substances under REACH and CLP. ECHA. 2017.) したがって、SDS等にはEC番号 を使って、List No.を使わないほうが良い。

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