要約
政府は現時点で塩化水素を、呼吸器感作性物質、すなわち、免疫機構により特異的に気道過敏反応を引き起こす物質としている。その根拠の一つは、政府の分類の指針に記載されていた日本職業・環境アレルギー学会に2004年に提出された職業性アレルギーの感作性化学物質リスト案文である(日本職業・環境アレルギー学会雑誌. 2004年. 12(1):95-97)。同学会は、2013年と2016年に「職業性アレルギー疾患診療ガイドライン」を刊行した。この書籍は非常に信頼性の高い記述となっている。そこからは塩化水素が外れている。政府の次の分類見直しにおいては、学会案文に代わってこれらの学会の公式ガイドラインを根拠に塩化水素の呼吸器感作性分類を当然外し、非免疫性気道刺激性の考慮として「特定標的臓器毒性(単回ばく露)」の記載の微修正が期待される。
呼吸器感作性は免疫機構の過敏反応
呼吸器感作性への分類は、免疫機構の気道過敏反応に限定していて非免疫機構のものを含まない。そのことは、「感作性」の名称から明らかである。さらに、呼吸器感作性について詳細に記載されているGHS 章 3 健康に対する有害性(Health Hazards) には、”3.4.1.3 For respiratory sensitization, the pattern of induction followed by elicitation phases is shared in common with skin sensitization.” 「3.4.1.3 呼吸器感作性で、誘導から惹起段階へと続くパターンは一般に皮膚感作性でも同じである。」(GHS 7th rev.とその政府仮訳) とある。このように、GHS 呼吸器感作性には明らかに非免疫機構 (non-immunologic mechanism) の 過敏反応 (hypersensitivity) を含めていない。
【補足】2018/04/26 「過敏性」に対応する英語には、hyperresponsiveness と hypersensitivity がありあいまいである。GHS第1部に記載の定義 “Respiratory sensitizer means a substance or mixture that induces hypersensitivity of the airways occurring after inhalation of the substance or mixture” に出てくる「過敏性」は、hypersensitivityである。hypersensitivity とは、”Altered reactivity to an antigen, which can result in pathologic reactions upon subsequent exposure to that particular antigen. Year introduced: 1966″ (PubMed MeSH https://www.ncbi.nlm.nih.gov/mesh/68006967 2018/04/26 アクセス)であり、抗原に対する反応としての過敏性に限定されている。したがって、bronchial(気道) hypersensitivity と、bronchial hyperresponsiveness は同じでない。両者とも「気道過敏性」と訳される場合があるが、後者は、「気道反応亢進」と訳し分けることが望ましいだろう。
GHSの第1部序にある呼吸器感作性の定義文一文を見ただけでは、呼吸器感作性クラスへ分類実施することはできず、第3部の記述を尊重しなければならない。確かに、GHS第1部に記載されている定義文は、非免疫機構 (non-immunologic mechanism)の過敏反応も含めてもよいかのように読める。”Respiratory sensitizer means a substance or mixture that induces hypersensitivity of the airways occurring after inhalation of the substance or mixture” 「呼吸器感作性物質(Respiratory sensitizer)とは、物質または混合物の吸入後に起きる気道の過敏反応を誘発する物質または混合物をいう。」 (GHS 6th rev.とその政府仮訳) しかし、前段落で記載したように、第1部序だけでなく第3部健康に対する有害性 (Health hazards) の詳しい記載を尊重してクラス及び区分分類が実施されるべきである。非免疫性気道刺激性は入れるべき別のクラスがある。
非免疫性気道刺激性は「特定標的臓器毒性」クラスに分類: H335 吸入による気道・肺の障害
非免疫性気道刺激性はGHS 3.8章に記載されている特定標的臓器毒性(単回ばく露)クラスに入れるべきものである。GHS 3.8.2.2.1に、気道刺激性 (Respiratory tract irritation)の判定基準が記載されている。それに対応する hazard statement (危険有害性情報) として、H335 May cause respiratory irritation (呼吸器への刺激のおそれ) が用意されており塩化水素がこの有害性の区分 3 であればそれが使用できる。ただし、政府は刺激性にとどまらない有害性が呼吸器に対してあると判断し、区分1としているのでこの H335 は使えない。しかし、区分1に対応する hazard statement H370は、”Cause damage to organs (or state all organs affected, if known) (state route of exposure if it is conclusively proven that no other routes of exposure cause the hazard)” 「<.. ..>の障害(もし判れば影響を受けるすべての臓器を記載する)(他の経路からのばく露が有害でないことが決定的に証明されている場合、有害なばく露経路を記載)」(GHS 6thとその政府仮訳) とされている。そこで、それに順じて、ACGIH(2003)、又は、ACGIH(2000)の記述を根拠に「刺激性気道過敏反応」もしくは、後に述べる「刺激物質誘発職業性喘息」について言及しつつ、現在の記載より明確に「H335 吸入による気道・肺の障害」等と記載すべきである。
【補足】 仮に物質が呼吸器感作性の場合、それをもってこの特定標的臓器毒性(単回ばく露)クラスに入れないのがGHSの規定である(GHS 6th 3.8.1.1)。GHS3.8章に記載の特定標的臓器毒性(単回ばく露) 危険有害性には、3章記載の、特定標的臓器毒性(3.8, 3.9章)以外のHealth Hazards「健康に対する有害性」のすべてをこのクラスに入れないことになっている。呼吸器感作性などの3.1~3.7, 3.10章に記載されたHealth Hazardsは、相対的に一般的な、3.8章や3.9章のHazardから「特出し」して一つのHealth Hazard項目にしているといえる。
こういったリスト上に同じレベルでない項目が並び、一部を特だしする処理の仕方は国連危険物輸送規則の国連番号と呼ばれる分類番号(危険物クラスのレベルの下の分類)でみられる。この規則は日本でも海上と航空輸送には適用されているものである。例えば、この規則では、その規則の一部である危険物リストにはFlammable Liquid(引火性液体)として、個別物質名1-pentene (UN1108)と、一般名Hydrocabons, liquid, n.o.s (UN3295)とがあるが、1-penteneは、相対的に一般的なUN3295に分類してはならず、より具体的なUN1108として特定しなければならない。一方、pentadieneはそのリストにないが、危険物でないという意味ではなく、そのUN1108として特定しなければならない。分類基準をよく理解しないで名前だけリストにあるかだけチェックすれば分類できるということはあり得ないのは、輸送規則であれ、GHSであれ、その他の分類であれ同じである。なお、n.o.s とは、not otherwise specified (特に断りのない限り)という契約書でよく見る英語である。
政府分類根拠:塩化水素を呼吸器感作性とした根拠
政府が現時点で塩化水素を呼吸器感作性クラスに入れている根拠をあらためて転載すると、
- 【根拠1】「日本職業・環境アレルギー学会特設委員会にて作成された職業性アレルギーの感作性化学物質の一つとしてリストアップされているので区分1とした。」
- 【根拠2】「なお、ヒトで塩化水素を含む清掃剤に曝露後気管支痙攣を起こし、1年後になお僅かの刺激により喘息様症状を呈したとの報告がある(ACGIH 2003)」(NITE GHS 分類結果 > 塩化水素)
である。ここでは、根拠1について考察を行う。
呼吸器感作性分類作業の指針
政府による塩化水素を呼吸器感作性の決定は、技術指針注2の次の記述に基づく。技術指針(H17.12.6版)は次のように言っている:
「1.分類手順について
1).呼吸器感作性:
【判定基準1】または【判定基準2】に適応するものを区分1 とする。
【判定基準1】人への吸入暴露で、呼吸器過敏症を誘発する証拠があり、Priority1 のいず
れかの評価文書で陽性と結論づけている場合(結論づけているとは、示唆されるや
可能性があるという表現ではなく、明らかに陽性であると明言しているもの。
…
【判定基準2】下記の学会でリストアップしている物質である場合
日本職業・環境アレルギー学会特設委員会(2004)「職業性アレルギー疾患の予防のガ
イドライン(案)」、日本職業・環境アレルギー学会雑誌、12(1):95-97」 (以下 2004年学会案)
【根拠1】は、【判定基準2】によるものである。
次回分類作業では学会案文ではなく学会正式文書ベースで
当然今後の分類作業(クラスに入れて区分を決定する作業)では, 判定基準2の2004年学会案の代わりに、正式の2016年学会ガイドラインが判定基準として使用されることが期待される。最新の呼吸器感作性分類(クラスごとの区分分け)の技術指針が記載された政府向けGHSガイドライン 平成25年度改訂版 (Ver.1.1)注1ではこの判定基準2がすでに削除されている。最新の政府GHS分類ガイダンスに、案文ではなく公式の2016年学会ガイドライン、2013年学会ガイドラインは参照情報として挙げられていないのは、政府向けGHSガイドライン作成時に、まだガイドラインが公開されていなかったと思われるが(2013年ガイドラインは微妙だが…)、当然、もともと日本職業・環境アレルギー学会の案文段階のものを判断のための参照情報として採用していたのであるから、正式情報である2016年学会ガイドラインの情報に基づいて新たに政府分類が見直されるのは当然と予想される。
注1 政府向けGHS分類ガイダンス(平成25年度改訂版(Ver.1.1))
政府は政府向けのGHSの分類(クラス区分分け)を行うためのガイダンスを発行していて、「関係省庁にてGHS分類を効率的に実施するためのもの」としている。最新のものは『政府向けGHS分類ガイダンス(平成25年度改訂版(Ver.1.1))』であり、経済産業省のウェブサイトGHS分類ガイダンスからダウンロードできる。
政府向けGHS分類ガイダンスは何度か改訂されているが、GHS分類が始まった当時は、「GHS分類マニュアル」と「GHS分類に関する技術上の指針」【技術指針)の二部で構成されていたが、その後「GHS分類ガイダンス」として統合された。平成25年度改訂版(Ver.1.1)がその統合されたバージョンの最新版である(2018/02/21現在)。
注2 GHSによる健康有害性分類にかかる技術上の指針 (技術指針注2)
塩化水素が最初にGHS分類(クラス区分分け)が政府によってなされた当時は、「技術上の指針」に基づいて行われた。その文書は、たとえば、国立国会図書館オンライン(NDPL ONLINE)で、「GHSによる健康有害性分類にかかる技術上の指針(技術指針)」で検索することにより、PDFファイルが入手できる。
塩化水素は2013年学会ガイドライン及び2016年学会ガイドラインにはない
2004年学会案文にあって、2013年及び2016年の、職業・環境アレルギー学会ガイドライン専門部会監修の「職業性アレルギー疾患診療ガイドライン 2013」(2013年学会ガイドライン)、「同2016」(2016年学会ガイドライン)には、塩化水素(塩酸)の記載がない。日本職業・環境アレルギー学会としては、専門家判断により、塩化水素を「職業性喘息を引き起こすと推定される吸入物質」としなかったわけである。文献を精査した結果、塩化水素を呼吸器感作性物質とする根拠(エビデンス)が見つからなかったということであろう。
免疫機構上特異的な物質による喘息症状等を生じるのが呼吸器感作性で刺激性物質誘導と区別
暴露物質が抗原となって感作が成立し免疫アレルギー機序で喘息を発生するものを、感作性物質誘発職業喘息 (sensitizer-induced OA) に分類する (2016年学会ガイドライン)。このように、感作性の喘息原因物質 (すなわち、呼吸器感作性物質) は、喘息症状である呼吸器不全症候群が、免疫学上、原因物質に特異的に起こるときに分類するものとされ、非感作性の「刺激性物質誘発職業性喘息」と区別されている。
ACGIHも感作性物質誘発と非感作性物質誘発を区別
これは、根拠2の情報源となっているACGIHの判断―政府判断とは異なる判断―と同じ考え方に基づいている。ACGIHは文献調査の結果として、塩化水素によって喘息症状があるがそれは非感作性の刺激性物質によるものであるとする、Boulet, L. P. (1988). Increases in airway responsiveness following acute exposure to respiratory irritants: reactive airway dysfunction syndrome or occupational asthma?. Chest, 94(3), 476-481. の提案に従ったのである。しかし、政府はACGIHのその記述に基づいていながら、逆の結論を導いた(だたし、「なお」と、補足情報でしかないかのように記載しているのだが…)。
非感作性の刺激性物質による喘息症状―国際的に共通の認識
感作性の喘息と反対のこの非感作性の喘息症状という概念―非感作性のものを「喘息」と呼ぶかどうかは別にして―は、irritant-induced asthma (刺激性誘導喘息)あるいはReactive Airways Dysfunction Syndrome (気道不全症候群)として、米国でも紹介されており、(Tarlo, S. et al. (2008). Diagnosis and management of work-related asthma: American College of Chest Physicians Consensus Statement. Chest, 134(3), 1S-41S.)、また、欧州アレルギー・臨床免疫学会(European Academy of Allergy and Clinical Immunology, EAACI) のポジションペーパも同様のことを述べている(Vandenplas, O., Wiszniewska, M., Raulf, M., Blay, F. D., Gerth van Wijk, R., Moscato, G., … & Schlünssen, V. (2014). EAACI position paper: irritant‐induced asthma. Allergy, 69(9), 1141-1153.)
そのポジションペーパー一部を引用すると、 “It is currently acknowledged that the term ‘occupational asthma’ (OA) refers to the initiation of asthma or the recurrence of previously quiescent asthma caused by either immunological sensitization to a specific substance at work (i.e., high-molecular-weight [glyco]proteins or low-molecularweight chemicals), which is termed ‘immunologic/allergic OA’ or ‘OA with latency’ or ‘sensitizer-induced OA’, or by exposure to inhaled irritants at work, which has been labeled ‘nonimmunologic/nonallergic OA’ or ‘OA without latency’ or ‘irritant-induced (occupational) asthma, IIA’ (1–5). The term IIA has been introduced to characterize the development of asthma symptoms, nonspecific bronchial hyperresponsiveness (NSBH), and airway inflammation induced by irritant mechanisms, as opposed to OA caused by immunologic mechanisms leading to specific bronchial hypersensitivity to a workplace agent. …”
“職業性喘息”(OA)という術語の意味について現在認められているのは, それが、1) 喘息のイニシエーション, 若しくは, 治まっていた喘息の再発が, 職場における特異的な物質による免疫学的感作により引き起こされるもの, 又は, 2) 職場において吸入した刺激性物質への曝露によって引き起こされるものということである。前者(1)は, たとえば, 高分子量の[糖]タンパク質, 又は, 低分子量の化学物質によって引き起こされ,”免疫学的/アレルギーOA”, 若しくは,”潜伏性OA”, 又は,”感作性物質誘導OA”と呼ばれている。それに対し、後者(2)は、”非免疫学的/非アレルギー性OA”, 若しくは,”非潜伏性OA”, 又は,”刺激性物質誘導 (職業性)喘息, IIA”と呼ばれている。 新たに取り入れられたIIAの術語が表しているのは, 喘息症状、非特異的気管支過敏反応(NSBH), 及び、刺激機構によって誘導される気管の炎症の症状が、刺激性機構により誘導されるという特徴を示すということである。そして、それと対極にあるOAは、免疫学的機構により引き起こされ、結果として職場にある因子によって特異的な気管支過敏反応が表れるものである。
2016年学会ガイドラインのリスト(高い信頼性)
2016年学会ガイダンスのリストは信頼性が高い。それぞれの物質に対して、その根拠となった情報の出典が示され(全体で358文献), 及び, そのエビデンスレベルが明記されている。このような記載方法は、2004年学会案文ではとられておらず、塩化水素(塩酸)を含めそれぞれの物質が呼吸器感作性とした根拠が明瞭ではなかった。検討のためのリストであったのであるからそれでもよかっただろう。また、2016年学会ガイダンスのエビデンスでは、「1例報告」しかないものまでカバーしている(エビデンスレベル③―最低レベルのエビデンスと評価)。以上から、このガイドラインは十分に、信頼性の高い記述が行われている情報であるといえ、日本のこの分野の複数の専門家によるレビューが行われた結果でもあり、高い信用性を持つといえる。このガイドラインを作成した専門家のリストには、2004年学会案文を作成を担当した専門家が含まれていることも重要である。
逆に呼吸器感作性に新たに分類される恐れのある物質
これに限らないかもしれないが、無水ピロメリット酸は、逆に次の政府分類の機会に、呼吸器感作性に変更される可能性が高い。無水ピロメリット酸 (CAS RN: 89-32-7) は、現在(2018年2月21日)の政府分類では、皮膚感作性に分類されているが、呼吸器感作性には分類できないとされている。しかしながら、2016年学会ガイダンスでは、一つの海外のエビデンスレベル①の文献情報と日本のエビデンスレベル③の文献情報からこれを、職業性喘息を引き起こすと推定される吸入物質としており、EU のGHS実装であるCLP規則でも現時点で呼吸器感作性区分1としていることもあって(https://echa.europa.eu/brief-profile/-/briefprofile/100.001.726)、政府分類でも呼吸器感作性とされる可能性が高い。
このエビデンスとして2016年学会ガイダンスに挙げられている論文は次の二つである。
- Baur X. Czuppon AB, Rauluk I, et al. A clinical and immunological study on 92 workers occupationally exposed to anhydrides. Int Arch Occup Environ Health. 1995; 67 : 395-403. (エビデンスレベル①)
- 田中健一、無水ピロメリット酸による職業性喘息が疑われた2症例. 産業医学. 1992; 34:150-1. (エビデンスレベル③)
最終更新 2018/02/26, 2018/04/26